4年前に沖縄市に移り住んだわたしは、県北部に行くときには太平洋側を走る国道329号線を使うので、沿道のこの辺りにはなんとなく土地勘がある。アラモードというケーキ屋さんの1個50円のブローニーには、去年からずいぶんとはまっている。
だけれども、なのだ。必ず目にするはずの火力発電所の2本の煙突も、夫の好きな中日ドラゴンズがキャンプをしていた市営球場も、いやそれどころか、それらが建設されていたはずの埋め立て地そのものが、すっぽりと姿を消している。
おやっと思って石川岳の方へ目をやると、がれきを割って続く一本道を、鉄の塊のようなトラックが、土ぼこりをもくもくと上げて走ってきた。フロントにはGMCの大きな文字。目の前を通り過ぎるとき、荷台に乗った軍服の男たちが、エンジン音に負けじと大声で話をしていた。
(いまのって、昔の米軍のトラックだよね)
すると土ぼこりの向こうに、屋根の尖ったモスグリーンのテント小屋が、ずらりと建ち並んでいるのが見えた。米軍の野営用のものだろう。ただし、たたずんでいるのはアメリカ人ではない。その周りを囲む有刺鉄線の柵には、びっしりと洗濯物が吊るされている。
(そうだった、わたしたち家族はいま、石川の難民収容所で暮らしてるんだ)
夢の中のわたしは、ここでようやく気が付いたってわけ。今日は1945年6月の、えっと何日だっけ。北部での戦闘が落ち着いてから、もう2か月になるだろうか。
ならばと、早速、家族3人分の食料を求めて配給所へと向かう。中央倉庫という軍事物資の置き場が収容所の南端にあるのだ。
近道を行こうと狭い通路を歩いていると、診療所として使われている大きなテントの横を通りかかった。すると一番手前の病床用のベッドに子供が横たわっているのが見えた。両足が力なく伸びて動きもしない。その横で若いお母さんが無表情のまま、その子のぼさぼさの髪を何度も、何度も撫でていた。
「また、童(わらび)ぬ死じゃんさー」
どこかで誰かがつぶやくのが聞こえた。多分、赤痢だろう。井戸が汚染されているのだ。それに南部では艦砲射撃でたくさんの人が倒れ、集団自決もあったはずだ。
だけど、そういったことを本でしか知らないわたしには、かける言葉などみつかるはずもない。そのまま下を向いて足早に進むだけだった。
配給所ではCレーションと呼ばれる軍隊の携行食がもらえた。肉や豆の入った缶詰やビスケットのほかに、レモンジュースの粉末の素がついていた。パッケージにはビタミンC入りと書いてあった。やっぱりこの時代でも進んでいるなアメリカは。
この配給をもらう列で、すぐ後ろに並んでいた年配のお母さん方から聞いた話では、今日は「石川演芸会」という催しがあるそうだ。
「ヤマトの人には面白いはずよー」
あれ、収容所の中でもナイチャーってばれちゃうんだな、なんてことを考えながら、7歳の息子を探しに行く。
息子はわたしたちのほか、3家族が暮らすテントの前で、ひとつ年上の女の子とチャンバラごっこをしていた。
「さあ、戦さも終わったし、気晴らしに演芸会、見に行こうね」
夢の中だ、なにも遠慮することはない。息子の手をひいて歩き出すと、女の子も棒切れを持ったままついて来た。演芸会にはその子のお母さんも出るんだそうだ。
石川難民収容所風景 (水の江拓治氏「沖縄戦場」より)
二次世界大戦で支給された携帯野戦糧食、Cレーション(Wikipediaより)
わたしたちのように三々五々集まってくる人たちが向かう先には、小学校、と言っても校舎があるわけではないんだけど、朝礼や体育の授業に使われる運動場があって、その隅に何日か前から特設のステージが建てられている。
戦後間もなくにしては立派な作りで、ドラム缶を土台代わりに並べた上に、板が敷き詰められた十畳ほどの広さ。テント地で屋根も張られ、ステージバックもある。屋根の右側にひとつだけ、自転車の車輪ほどの拡声器がついてる。
そのステージの前は、すでに見渡す限りの人で埋め尽くされていて、ちょっとした野外音楽フェスさながらだ。
皆、着の身着のままといった格好だけど、中にはワンピースを着た女性、パナマ帽をかぶった男性もいる。焼け出されずに、ここに収容された人も多いと聞いている。
その人いきれに圧倒されながらも、わたしは息子と女の子を左右の手でしっかりつなぐと、群衆を掻き分けステージ前へと進んでいった。やっぱり前の方で見たいからね、はは。
すると、ステージバックに掲げられた横断幕に「沖縄のチャップリン、小那覇舞天ショウ」と書かれているのがはっきり読めた。
(そうか、今日はブーテンさんも演芸会に出るんだ)
ブーテンさんは歯医者さんでありながら、三線(さんしん)を弾いて漫談をするというちょっと変わり者。もちろん収容所内では人気があって、彼が道端で余興を始めると、すぐにわっと人垣ができる。ヒットラーを笑い話にしたとかで、沖縄のチャップリンとも呼ばれている。
そのうち、小学生の合唱を皮切りに演芸会が始まった。舞台上には木製のオルガンが運び込まれていて女の先生が伴奏をしている。
続いて、琉球舞踊の演目。師範クラスの踊り手が次々と舞う中、10歳だという女の子の独り舞台には、観客から割れんばかりの拍手が起こっていた。
そうして1時間もたっただろうか、だぶだぶのジャケットに蝶ネクタイ、黒縁眼鏡にちょび髭をはやした小柄な男がステージに現れた。そう、彼こそがブーテンさんだ。すぐに三線をすっと小脇に抱える。三線といっても缶から三線だ。空き缶と材木、パラシュートの紐で作られている粗末なもの。収容所の文化部芸術課長をされているので、まずは何か堅苦しい挨拶でもするのかと思ったら、
「さっきもらったから、今日はこれを弾いてみようねー」
くすくすと観客から笑い声が聞こえてくる。
「みなさん、生き残った私たちが、元気に生きなくてはなりません。ぬちぬぐすーじさびらー。さあ、命のお祝いをしましょう!」
ティンクティンク ティンクティンク ティッティ ティッティ ティッティ ティッティ
いきなり早弾きが始まる。運動場いっぱいに広がった観衆からどっと歓声がわき起こる。やがて手拍子が打ち鳴らされると、その手はカチャーシーに変わっていく。
(そうそう、ここが大切なところ。戦後の沖縄を、歌と笑いで元気にしたって下りだよね)
夢の中のわたしは、何かの答え合わせをするように、固唾を飲んでブーテンさんを見つめる。
1945年6月石川演芸会 (沖縄県公文書館所蔵)
沖縄のチャップリンと呼ばれた小那覇舞天氏
するとそのステージには、次から次へと演者が上ってきた。ワイシャツ姿の長身の青年は、胴を朱に塗られたエイサー太鼓を叩き出し、赤いワンピースに白いベレー帽の4人組の少女たちは、きれいに並んでコーラスを始める。
(えっと、だからリンスケさんと、フォーシスターズかな)
夢の中の私は、また答え合わせをする。その長身の青年がニコッと笑ってそっとわたしに手を振った。やっぱりリンスケさんだ。リンスケさんとは一応、知り合いなのだ。
そこに、今度は大小さまざまな太鼓を持った一団が現れた。青年会のエイサーではない。青い線の入ったお揃いのパナマ帽をかぶり緑のアロハシャツ。肩から下げた太鼓は、どうみても金属製のドラムだ。
(あれれれ、あれってうちの夫たちだよね。なんで急に出てくるの?)
夫とその仲間5名が、ブーテンさんの速弾きに合わせて得意気にドラムを叩いている。ドラムの側面に描かれているのは緑と黄色のブラジルの国旗。
「やったー、おとーさんだー!、おとーさんのサンバチームだ!」
横にいた息子が棒切れを振り回して喜ぶ。女の子と一緒になって太鼓を叩くまねをする。
するとまたひとり舞台に上ってきた。すかさず「うぉーっ」と観客からさらなるどよめきが起こる。この時代では半裸というのかな、つまりビキニ姿。真っ赤なスパンコールの衣装をまとい、頭と背中にも同じく真っ赤なオーストリッチの羽根飾り。それとは対照的に肌は褐色に輝いている。
大きく広がった羽根をゆさゆさと揺らしながら、ステージ狭しと右へ左へと跳ね回る。目が釘付けとなった男性陣からは、指笛がピューピューと盛んに鳴らされている。
「あっ、おかーさんだー」
女の子が、背伸びをしながら、棒を持っていない方の手を大きく振った。
「どうしたねー、ほらー、あんたも早く踊ったらいいさー。あんたもサンバの人じゃないねー」
ふいに、横にいた中年女性がわたしの肩を叩いてきた。
「えっ、でも、わたし衣装が無い」
「なに言ってるさねー、その格好でいいいさー、上等さー」
自分の胸元に視線を下ろすと、いつの間にか緑色のビキニ姿に変わっている。サンパウロで作ったお気に入りの衣装だ。頭と背中にも同じく緑の羽根飾り。
「おーい、早く上がって来いよー」
夫が大きな声でステージから呼びかけてくる。
「おかーさん、がんばれー、おかーさん、早くー」
息子が目の前でぴょんぴょんと飛び跳ねている。
「おかーさん、早くー、朝ごはん作 ってよー、もう、学校遅れちゃうよー」
はっと目を覚ますと、枕元のアラームが鳴りっぱなしだった。
第2話に続く
石川演芸会で琉舞を披露する10歳の少女 (沖縄公文書館所蔵)
石川の製菓店アラモードのブローニー
参考文献:
「てるりん自伝」北中正和編 (株)みすず書房
「笑う沖縄「唄の島」の恩人 小那覇舞天伝」曽我部司 (株)エクスナレッジ
※この小説は実際あった出来事をヒントにしたフィクションです